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大國魂神社
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御由緒

御由緒

今からおよそ千三百年前の養老二(七一八)年、石城国が設置されました。石城国府は当社の東南およそ二キロに位置する根岸遺跡に置かれていたと考えられています。朝廷はこの地のまほろばの杜に大國魂神をお祀りし、当時の日本六十余の国々それぞれで同じ神をお祀りすることで、国の繁栄と安泰を祈りました。

当社周辺は古代文化の栄えた地であり、中田横穴(沼ノ内・国史跡)、八幡横穴(平下高久・市史跡)、夏井廃寺跡・根岸遺跡(平下大越ほか・あわせて国史跡「根岸官衙遺跡群」)、甲塚古墳(平荒田目・国史跡)など多くの遺跡が知られています。甲塚は石城国造・建許呂命の墳墓と伝えられています。

石城国はほどなく陸奥国に編入され、この地域は磐城郡に属することになりました。醍醐天皇の御代に編まれた『延喜式神名帳』(九二七年)には、磐城郡の七社のうち筆頭として記されています。

社伝によれば、桓武天皇の延暦年間、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征伐のため当地を通った折、荒れはてた小さな祠が大國魂神社であることを知って戦勝を祈り、賊をしずめたのちに社殿を築いてお礼のお祭りをなさったと伝えられます。

鎌倉時代には地頭・岩城氏の一族である國魂氏がお祭りをつかさどり、南北朝時代には神主・山名氏が周辺三村を領してお祭りを取り仕切ったことが記録に残っています。

室町時代には領主・岩城氏により社殿が大規模に造営され、江戸時代には磐城平藩主によって幾度も修復が重ねられました。当時は神主・下社家・巫女あわせて二十数名が奉仕していたといいます。

幕末の慶応元(一八六五)年には朝廷から「勅宣正一位」の神階を授かり、明治十二(一八七九)年に郷社となり、大正十二(一九二三)年には県社となりました。

千三百年を伝えるもの

鎮座から千三百年、社に伝わる話と、境内や土地に残るものをご紹介します。

  • 社に伝わるはじまり

    養老二年(七一八)の鎮座

    奈良時代、石城国(いわきのくに)が置かれたとき、国府にほど近いまほろばの杜に大國魂神をお祀りした——。社に伝わる、はじまりの話です。

  • 古い帳簿に見える名

    延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)

    延長五年(九二七)、朝廷が全国の社を書き上げた帳簿です。そこに、磐城郡七社の筆頭として当社の名が見えます。延喜式内社(えんぎしきないしゃ)という呼び名は、この帳簿にちなみます。

  • 土地に残るもの

    甲塚古墳

    神社の飛び地境内にある国指定史跡で、初代の石城国造・建許呂命(たけころのみこと)の墳墓と伝えられます。石城郡衙(いわきぐんが)に比定される根岸遺跡も、ほど近くにございます。

  • 生きて残るもの

    大杉とまほろばの杜

    鳥居前にそびえるご神木の大杉は、推定樹齢千三百年です。御社殿を囲む杜は「まほろばの杜」とよばれ、杜そのものが市の天然記念物に指定されています。

代々、受け継ぐ

鳥居の前に並ぶ三代の神職
中央:五十一代目 向かって左:五十二代目 右:五十三代目

当社の神職は、山名(やまな)家が代々お仕えしてまいりました。南北朝時代には、神主・山名氏が周辺三村を領し、お祭りを取り仕切っていたことが知られています。

いまの宮司、山名隆弘は五十一代目にあたります。その子、その孫が五十二代・五十三代として、同じ社にお仕えしています。

社殿は建て替えられ、杜の木も代替わりします。それでも、同じ家が同じ神様に向かい続けてきたことが、この社のかたちをつくってまいりました。

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