くにたま通信
記念樹
宮司 山名隆弘
私たちは、よく樹木を植えます。その多くは何ごとかの記念のために植えます。
松尾芭蕉(一六四四〜九四)は『奥の細道』の旅で出羽三山に参詣しましたが、同行した曽良の日記に
赤樫を母の記念に植ゑをかれ
と記しています。「記念」をかたみと読んでいます。この赤樫は芭蕉が植えたものでしょう。
それは芭蕉のさいごの旅で、故郷の伊賀国上野(現三重県)を訪れたときに
父母のしきりに恋し雉の声
とよんでいますが、亡き親を慕う芭蕉の真情を物語っているにちがいありません。
松尾芭蕉を支援していた人物がいました。磐城平藩主の名門に生を享けながら、家中に渦巻く家老・松賀族之助の野望を防ぎ通し、忍耐を続けたひと、内藤政栄公(一六五五〜一七三四)でした。奥の細道の旅は政栄公が支援者となってはじめて可能だったのです。政栄公は「露沾」という俳号を称しました。
芭蕉が亡くなった翌年(元禄八・一六九五)平藩邸(東京材木町、現在の六本木あたり)が焼失したこともあって、三月に露沾は磐城平城の西、高月屋敷(現、磐城高校地)に住むことになりました。
磐城平にやってきて、四月、はじめて大國魂神社に参詣しましたが、ときの神主のしのば(物置き)で、神主がコツコツと作りかけていた神輿を見て「余はことし、四十二歳になった。よければ余の厄祓いとして御神輿を奉献させてもらいたい」と願い出られたのです。
宮司宅は、以前はかやぶきで、その「奥座敷」に床の間があり、東側には「いろはもみじ」の大木がありましたが、この一室に露沾公は宿泊されたそうです。
神社に伝承されている、いくつもの話しを楽しむ中でも、露沾公の詩心を揺さぶったのは「鬼椿の話」でした。
千々旧りて 祭普し鬼椿
今も六月十一日(付近の日曜日)には『鬼椿祭(樹魂祭)』をおこなっていますが、祭場に植えられている椿は、それだけの樹齢を経ているというわけです。
このように記念の樹にはさまざまな物語りが込められているという一例として記しました。
この四月、禰宜の長女の大学入学を記念して、裏山の麓に「河津桜」を二本、熱海から取りよせて植えました。
宮司 山名隆弘
